定年直前の3月11日。この日は私達定年退職者を送り出す、労組女性部「サークル合同卒業を祝う会」が予定され、翌日からは九州から到着する仲間を加え、箱根への卒業旅行を計画していた。
東日本大震災が襲った時、私は和光市の築30年の自宅マンションで、本日の出し物である「SAORI織のファッションショー」の衣装を海外旅行用ケースに詰め込み、出かける寸前だった。
老朽化した建物だが、昨年の大規模修繕で外壁工事と耐震調査で指摘されたピロティ部分の補強工事を終了していたのが功を奏したのか、室内、建物共に被害はなかった。
家族の安否が気になる。孫が幼稚園から帰る時刻なので、嫁に確認メールをしても返信がない。
4:30 災害用伝言版
「無事です。みんな家にいるよ」嫁のメッセージ。メールはだめでも伝言版は有効。
「無事です。みんな家にいるよ」嫁のメッセージ。メールはだめでも伝言版は有効。
5:30
旅行に行く九州の友人から福岡空港は搭乗受付ストップ・電話回線混乱のメール到着。メールも携帯も通じず、自宅電話同士で連絡がとれ旅行中止を確認する。ところがあくる日は逆に携帯が通じた。
旅行に行く九州の友人から福岡空港は搭乗受付ストップ・電話回線混乱のメール到着。メールも携帯も通じず、自宅電話同士で連絡がとれ旅行中止を確認する。ところがあくる日は逆に携帯が通じた。
20:40
職員向けの安否確認一斉通報サービスが6時間遅れで到着。被災地だったら機能するのか?
職員向けの安否確認一斉通報サービスが6時間遅れで到着。被災地だったら機能するのか?
息子達は徒歩や会社の車で深夜帰宅。長男は会社から自宅にFAXsi
たそうだが、この方法は有効だ。
たそうだが、この方法は有効だ。
0:05
「新宿駅に出ても人が一杯で駅に入れません」とメールを寄越した職場の友人は、駅員の誘導がよかったのか割とスムーズに電車に乗れ、何とか帰宅できたとの連絡。
「新宿駅に出ても人が一杯で駅に入れません」とメールを寄越した職場の友人は、駅員の誘導がよかったのか割とスムーズに電車に乗れ、何とか帰宅できたとの連絡。
年休消化中の私は、その後、余震と計画停電に奔走され、揺れていなくとも地震のような錯覚に落ち入る落ち着かない日々を過ごした。被災地生協への支援活動の募集があった時、参加したいと職場に申し出たが、すでに男性職員を中心にローテーション済みとのことで保留。
今、私に何ができるのかと自問。25年間続けてきたさいたまコープの積立増資を思い出した。期中の特別減資申請を出し30万円が返金される。それを義援金として直ちに振り込んだ。
所属する自主活動PPNのメンバーでIT会社を運営している仲間は、震災直後から関連情報を希望者に一斉配信を始めNO.201まで継続。計画停電エリア情報を含め、発信された情報は大変助かった。
私は現地支援に向かった仲間達からの映像とメッセージをPPNブログで随時紹介した。これを見たネパールの仲間からも、現地の「日本を支援する活動」の紹介が寄せられる。
ちょうど6年前(2005.6.30~7.7)、私はスマトラ沖地震の津波に被災したスリランカの海岸線にある学校に、学用品を届ける「顔施ツァー」に参加していた。生協の仲間から募金を集め、鉛筆2000本、ノート16000冊を1350人の被災した子供たちに手渡してきた。
そのスリランカの海岸線とテレビに写る東北の海岸線は同様に見える。異なるのはいつ終息するのか展望のない福島原発事故だ。私たちは子孫に大きな負の遺産を残してしまった。私たちはこれから、どうしたらよいのだろう?
表紙のコラムでも書いたが、村上春樹のカタルーニャ国際賞授賞式でのスピーチを紹介したい。
「我々は技術力を結集して、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が『原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ』とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据え付けるべきだったのです。それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。」
その通り、今からでも「原子力発電から撤退しよう」の声を私は勇気を持って発信していきたい。
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