最近、おもうこと

50歳から始めた”さをり織” 「自分自身を織り上げる」という創始者・城みさをさんのことばに惹かれました。

定年後の第二の人生、2016年7月に「姉妹塾 SAORIKO-UKO」 を和光市で開所しました。

大好きな”さをり織”を、多くの人に伝えて一緒に楽しみたいと思っています。

もうひとつのチャレンジは、10年間続けているネパールの貧しい家庭の子ども達の就学支援、この活動をもっと広げるために、

2017年4月に「ネパール子ども基金・里親の会」のブログを立上げたことです。

里子が自分自身の将来を切り開くために、私たちのボランティア活動が少しでもお手伝いができればと考えています。

そしてこの「SAORIKO日記」を再開しました。

2011-02-24

義姉の想い出

義母は二人の娘と息子を育てたのに、末っ子の息子と長女に先立たれ、90歳で残されました。
義姉の訃報を聞いた時、真っ先に頭をよぎったのは、息子を亡くしてから「長生きなんてするもんじゃない。子どもに先立たれるなんて。」と嘆いていた老いた義母の姿でした。

火葬場でお骨の焼けるのを待つ間、義母がポツリポツリと話してくれました。
満鉄に転勤となった夫と長女を連れ満州に渡り、そこで次女を生み、終戦の1年後に年児の幼女をおんぶに抱っこし、水を入れたやかん一つを抱えて一人福岡港にたどり着いたと。

日本に上陸すると同時に義母は倒れ2カ月入院。その後は幼子二人を家に残しても働かなければならない状況で、4歳の長姉が一つ違いの次姉を子守していたそうです。
「姉妹ケンカしてもけっして長女を叱ってはダメよ。いつも妹の面倒をよくみているのだから!」と近所の人から注意されたそうです。

義母の話を傍で聞いていた次姉も、「あたしの物心ついた最初の記憶は、姉から何かを口に入れてもらっている場面だった」と回顧していました。
シベリアに抑留されていた義父が、身体を壊して帰国したのは3年後とのこと。その後も、夫を助けて働き、子育てした義母は、「働きながら子育てするのがどんなに大変か、私はよく知っているから」と、昔、共働きの私を励ましてくれていたことを思い出します。

この日、私は義姉に以前プレゼントされたポシェットを身につけ、最後のお別れをしました。
やすらかにお眠りください。合掌。

通夜に集まった義甥と家族

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